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東京地方裁判所 昭和26年(ワ)1907号 判決

原告 李康洙

被告 株式会社帝国銀行

主文

原告の請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「第一次請求として、被告は原告に対し金四百三十万円及び之に対する昭和二十五年十二月二十七日以降完済に至るまで元金百円につき一日金五厘の割合による金員の支払をせよ。予備的請求として、もし以上の請求理由なきときは、被告は原告に対し同金額に同日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を附加してその支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、

(一)  その第一次請求原因として、

原告は昭和二十五年十二月下旬頃訴外一藤木重治より訴外藤井誠一等を介して、「知人に、銀行融資の枠を有するも年末を控えて銀行側資金不足のため融資を受けかねている者があるが、もし他人名義にても銀行預金を得られれば、これを裏打ちとしてその預金額の枠内において融資を受け得るにつき、原告名義を以て銀行預金をせられたく、この場合には被融資者より謝礼金として預金額の八分に相当する金員の提供を受け得る。」旨の申入があつたので、原告は右申入に応じ、結局金八百万円の銀行預金をなすこととし、同年同月二十七日自己の取引銀行たる株式会社千代田銀行日比谷支店の口座より金八百万円を引出し、同支店振出金額八百万円の持参人払式線引小切手一通を得て、これに原告の白地裏書をなした上、右訴外一藤木及び同藤井の両名と同道して預金のため被告銀行新橋支店に赴いたところ、同支店玄関先において訴外河西慶伍外一名の出迎えを受けて応接室に案内せられ、同所において訴外河西より同支店得意先係長訴外鈴木信知を紹介され、かつ訴外一藤木より右訴外河西を同支店の支店長代理であると告げられたので、原告は訴外河西が右の地位にあるものと信じ、同人に対し金八百万円を普通預金として同支店に預入れる旨の申込をなし、その払込に充てるため前記小切手一通を交付した。しかるところ同人より印鑑票用紙に署名捺印を求められたので、原告はこれに署名捺印の上同人に交付したが、間もなく所要手続を経て金八百万円の預金受入の記載ある普通預金通帳一通を同人より手交され、なお同日訴外一藤木の手を経て謝礼金六十四万円を受領した。その後昭和二十六年一月七日原告は被告銀行新橋支店に赴き、前記普通預金を通知預金に変更する手続を求めたところ、同支店においては右通帳の金八百万円の記載は金百万円の改ざんであると称して原告の求めに応じない。よつて調査したところ、訴外河西は被告銀行の行員ではないにかかわらず、行員の如く装つて原告より前記小切手一通の交付を受けるや、内金百万円を原告名義を以て普通預金をなしたに止まり、残金七百万円は訴外東光建設株式会社の当座預金に振込み、原告に対しては前記預金通帳の金百万円の預金額の記載を秘かに金八百万円に改ざんして交付したものであることが判明した。

しかしながら、前記預金の当日訴外河西は被告銀行の行員同様に右新橋支店内部を自由に歩き、その応接室を使用し、これと営業事務室との間を盛んに往復して行員同様の態度振舞をなし、客観的に見て第三者をして被告銀行員と信ぜしめるに足る如き外観を示していたにかかわらず、同支店係員は敢えてこれを黙認していたばかりでなく、進んで右訴外人をして新規預金申込に必要な印鑑票用紙を原告に交付せしめ、預金の対象たる小切手を原告より受領せしめ、さらに預金通帳をも原告に交付せしめる等被告銀行の預金者たる原告に対する応接一切を右訴外人に委せていたものであり、右の事実関係よりすれば、被告銀行は少くとも黙示的には第三者に対し右訴外人が新橋支店の預金業務に関する代理権を有する旨を表示したものというに妨げないから、右訴外人が原告より金八百万円の普通預金の申込を受けてこれを受諾し前記小切手一通を受領した以上、右預金契約につき被告銀行はその責を免れることはできない。

しからば被告銀行は原告に対し右預金の払戻に応ずべき義務あるものというべきところ、前記金百万円の預金については既に原告において払戻を受け、残金七百万円の部分については被告銀行の協力により訴外河西より金二百七十万円を回収したから原告は被告銀行に対しその残額四百三十万円及び前記預入の日たる昭和二十五年十二月二十七日以降完済に至るまで銀行利率たる元金百円につき一日金五厘の割合による利息並びに遅延損害金の支払を求める。

(二)  予備的請求原因として、

仮に原告の前記主張が認められないとすれば、原告はさらに次のとおり主張する。

(イ)  原告は被告銀行に対し金八百万円の預金申込をなしたのに対し被告銀行はこれを金百万円の預金申込として承諾したものであるから、原被告双方の意思表示は合致せず、結局預金契約は不成立に終つたことになる。而して預金契約が成立しないとすれば、被告銀行は法律上の原因なくして原告より前記小切手一通を取得したことになるから、不当利得としてこれを原告に返還すべき義務がある。ところが被告銀行は既に交換により右小切手を換金し、小切手そのものを返還することができなくなつているから、右小切手に代る金額を支払うべきである。しかも被告銀行は右小切手金中少くとも金七百万円については原告の預金預入金として受入れたものではないから、この部分については悪意の受益者として右小切手取得の当日より法定利息を附して支払うべき義務がある。よつて原告は被告銀行に対し右小切手に代る金員中未だ回収を得ない前記金四百三十万円及びこれに対する昭和二十五年十二月二十七日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による法定利息の支払を求める。

(ロ)  仮に原告の右主張にして理由なしとするも、被告銀行新橋支店の得意先係長訴外鈴木信知その他同支店の係員等において左記の如き銀行員として当然尽すべき注意義務を怠らなかつたならば、訴外河西の前記不正行為を未然に発見し、以て原告の損害の発生を防止し得たにかかわらず、これを怠つたため原告に前記金四百三十万円の損害が発生したのであるから、右は被告銀行の行員がその事業の執行につき原告に加えた損害として、被告銀行においてこれを賠償すべき義務がある。よつて原告は被告銀行に対し右損害金四百三十万円及びこれに対する不法行為成立の当日たる昭和二十五年十二月二十七日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。なお被告銀行の行員の注意義務懈怠の事実は次のとおりである。

(1)  銀行責任者は接客歓待の意味において外来者に銀行応接室の使用を許すが如き場合においても、その間不正等の行わるることなきよう絶えずその動静に注意を払うべき業務上の義務あるにかかわらず、被告銀行新橋支店得意先係長訴外鈴木信知は始めて同支店に来訪したに過ぎない訴外河西に対して二時間余に亘り同支店の応接室の使用を許容しながら、その間同所において如何なることが行われているかにつき何等の注意を払わず、漫然これを放置し、他の係員も右訴外河西が行員同様に事務室内を往来したり、事務室に出入したりすることに対して何等の注意を与えず黙過していた。

(2)  銀行係員は預金者殊に多額の預金をなす者が来店している際には直接本人との間において預金契約の締結、預金の受入並びに預金通帳の交付等をなすべきにかかわらず、前記得意先係長訴外鈴木は預金者原告の来店していることを知悉しながら、直接原告と応接することなく、訴外河西を介して原告の預金の申込を受け、印鑑票用紙の交付、預金のための小切手の受入、預金通帳の交付等一切の手続をなさしめたものである。

(3)  右訴外鈴木は訴外河西より前記一通の小切手を以て原告のために金百万円の普通預金口座を設けるとともに訴外東光建設株式会社の当座預金口座に金七百万円を振込むべきことを求められたのであるが、一通の小切手を以て同時に別異の人の口座に振込むことは銀行業務上異例の取扱に属し、しかも本件小切手には原告の裏書が存し銀行振出の持参人払式預金小切手に裏書をなすことは小切手法第三十四条所定の受取を証する記載以外には意味なきものであり、一面訴外鈴木は訴外東光建設株式会社の預金帳簿上の関係ばかりでなく、自ら当時同会社を訪れてその業務の内容を知り、到底七百万円というような多額の預金をなし得ない状態にあることを知悉していたものであるから、訴外河西の前記申入に対しては当然疑念を抱くべきであるにかかわらず、応接室に待機中の原告に対して何等これを確かめようとしなかつたことは明かに銀行員としての失態であり、業務上の過失たるを免れない。

(4)  大口預金の新規契約者に対しては銀行は特別の注意と敬意とを払い幹部が挨拶に出るのを慣例とする。しかるに本件の場合にあつては銀行幹部においてかかる措置に出なかつたため訴外河西の不正行為発見の機会を失したのである。

(ハ)  仮に原告の前記主張が認められないとしても、本件小切手は訴外河西が前記の如き手段により原告より騙取したものであつてその間に同訴外人が訴外東光建設株式会社のために代理取得したという観念を容れる余地はないから、右訴外会社は如何なる意味においても本件小切手の所持人たり得ず、従つて被告銀行は結局右訴外河西より本件小切手を取得したということに帰する。しからば被告銀行は自己の取引先または銀行にあらざる者より本件線引小切手を取得したものというべきであるから、小切手法第三十八条第五項の規定により、右小切手法違反の行為の結果原告に生じた前記金四百三十万円の損害を賠償すべき義務がある。よつて原告は被告銀行に対し右損害金四百三十万円及びこれに対する前記違反行為のあつた当日たる昭和二十五年十二月二十七日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

と陳述した。〈立証省略〉

被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、答弁として、

(一)  第一次請求原因に対し、

昭和二十五年十二月二十七日原告、訴外一藤木重治、同藤井誠一、同河西慶伍外一名が被告銀行新橋支店に来店し、右訴外河西等より同支店応接室の一時使用方を求められたので、同支店得意先係長訴外鈴木信知においてこれを許容し、同所において右訴外鈴木が同支店得意先係長として訴外河西より原告に紹介されたことはこれを認めるが、原告主張の原告等来店に至るまでの経緯は知らない。訴外鈴木は原告等来店後間もなくその居席において訴外河西より原告主張の株式会社千代田銀行日比谷支店振出金額八百万円の持参人払式線引小切手一通を示され、内金七百万円を訴外東光建設株式会社の当座預金口座に振込み残金百万円については原告のために新規普通預金口座を設定せられたい旨の申入を受けたが、その数日前訴外鈴木が訴外東光建設株式会社を来訪した際、同会社の会計課長訴外大山八郎から訴外河西を同会社の顧問として紹介され、かつ近日中に同会社から被告銀行に対し相当まとまつた預金をする旨を予告せられており、また原告は訴外河西の同行者でもあることゆえ、訴外鈴木は訴外河西の右申入に対して別に不審を抱くことなく、その申入のままに右小切手を受領し、当該係員をして内金七百万円を訴外東光建設株式会社の当座預金口座に振込ましめ、残金百万円については新たに原告の普通預金口座を設け、その旨の記載ある普通預金通帳一通を訴外河西を介して原告に交付したものである。その後昭和二十六年一月七日原告より前記普通預金を通知預金に変更する手続を求められた際、右通帳の預金額百万円の記載が金八百円に改ざんされていることを発見し調査の結果右は訴外河西の所業にかかることが判明したが、右改ざん行為は何等被告銀行の関知するところではない。要するに被告銀行としては原告より金百万円の普通預金を受入れたに止まる。原告が訴外河西の資格を如何ように考えたかは被告の知らないところであるが、仮に原告が訴外河西を被告銀行の新橋支店長代理であると考えたとしても、もともと同訴外人は被告銀行の行員でもなく、被告銀行において同訴外人に行員同様の待遇を与えたこともなく、また行員らしい振舞を黙許したこともないから、原告の表見代理に関する主張は失当である。銀行がその得意先関係の者に対し応接室の一時使用を許容することは顧客優遇の営業方針上銀行としては当然の措置であつて、これを難詰することは当らない。原告が訴外河西の資格につき訴外一藤木の言を軽々に信じ、銀行職員に聞き合わせる等のことをしなかつたとすれば、それはむしろ原告の過失である。

(二)  予備的請求原因に対し

(イ)につき

被告銀行は原告より訴外河西を介して金百万円の普通預金の申込を受けてこれを受諾し、原告との間に同金額の普通預金契約を締結したものであつて、原告主張の如き金八百万円の預金申込を受けたものではない。従つて原被告間に右金百万円の外にさらに金七百万円の預金契約の成立するに由ないことはいうまでもないが、被告銀行は本件小切手(金額八百万円)を原告より直接に取得したものではないから、その間に不当利得関係の成立する余地はない。すなわち被告銀行は訴外東光建設株式会社の代理人たる訴外河西より本件小切手の譲渡交付を受けてこれを取得したものであつて、同会社の入手経路については何等関知しないところであるから、被告銀行は所謂善意の小切手取得者として何人に対しても返還義務を負うものではない。被告銀行は右訴外河西より本件小切手金の内金七百万円を右訴外会社の当座預金口座に振込んだ上残余の金百万円につき原告のため新規普通領金口座を設けられたい旨の申込を受け、これらの預金勘定に振当てるために本件小切手を受領したものであるから、その取得については何等法律上の原因を欠くものではなく、被告銀行の右小切手取得と右金七百万円の預金契約不成立の事実との間には何等直接の因果関係はない。しからば原告の本件不当利得返還に関する主張は失当たるを免れない。

(ロ)につき、

(1)銀行が顧客優遇の意味において外来者に銀行応接室の使用を許容することあるは通例の事例に属し、この場合右外来者に特に不審のかどの認められない限り銀行側として干渉的態度を避けることはむしろ社交儀礼の問題に属するものというべく、また右外来者が所用のため営業事務室内に立入ることあるも特にこれを阻止すべき理由を認めない。本件の場合訴外河西等の行動に別段不審の点は認められなかつたから、被告銀行係員においても特にこれに干渉しなかつたまでである。

(2)預金者本人が来店した場合銀行係員が右本人と直接預金に関する応接を遂ぐべきことはいうまでもないが、本人の同行者が本人に代つて折衝をなすものと認められる場合にも、敢えて右同行者を措いて直接本人にはかる必要はない。

(3)一通の小切手を以て同時に別異の人の預金口座に振込むことは必ずしも銀行業務上異例の取扱に属するものではない。また持参人払式小切手は交付のみによつて譲渡し得るものであつてたとえこれに裏書をなすもこれによつて交付譲渡を妨げるものではないから、持参人払式小切手の取得については裏書の存否は問題とされないのが通例である。なお、銀行としては資金吸収に意を用いるのは当然であつて、いずれの銀行においても預金を受入れる場合に預金者の資産調査をなすものはない。

(4)大口預金の新規契約者がある場合に銀行幹部が挨拶に出ることは通常の慣例であるが、右は社交儀礼の問題であつて、業務上の義務として課せられたものではない。

以上述べたとおり、原告が銀行員の注意義務として主張するところは、いずれも業務上の義務とは認められないから、原告の本件使用者責任に関する主張も排斥を免れない。

(ハ)について、

被告銀行は自己の取引先たる訴外東光建設株式会社が本件小切手の所持人であると信じてその代理人たる訴外河西より本件小切手を取得したものであるから、原告の小切手法第三十八条第五項に関する主張はもとより失当である。

と述べた。〈立証省略〉

理由

まず本件の事実関係の大綱を確定するに、各成立に争のない甲第四号証の一乃至四、乙第四号証の一乃至六証人藤井誠一、同大山八郎、同伊集院重正、同鈴木信知の各証言及び原告本人尋問の結果を綜合し、これに前掲当事者間に争なき事実を加えれば次のとおりに認めることができる。すなわち、

原告は昭和二十五年十二月下旬頃訴外一藤木重治より訴外藤井誠一等を介して「知人に、銀行融資の枠を有するも年末を控えて銀行側資金不足のため融資を受けかねている者があるが、もし他人名義にても銀行預金を得られれば、これを裏打ちとしてその預金額の枠内において融資を受け得るにつき、原告名義を以て銀行預金をせられたく、この場合には被融資者より謝礼金として預金額の八分に相当する金員の提供を受け得る。」旨の申入があつたので、原告は右申入に応じ、結局金八百万円の銀行預金をなすこととし、同年同月二十七日自己の取引銀行たる株式会社千代田銀行日比谷支店の口座より金八百万円を引出し、同支店振出金額八百万円の持参人払式線引小切手一通を得て、これに原告の白地裏書をなした上、右訴外一藤木及び同藤井の両名と同道して預金のため被告銀行新橋支店に赴いたところ、同支店玄関先において訴外河西慶伍外一名の出迎えを受けて応接室に案内せられ、同所において訴外河西より同支店得意先係長訴外鈴木信知を紹介され、かつ訴外一藤木より右訴外河西を同支店の支店長代理であると告げられたので、原告は訴外河西が右の地位にあるものと誤信し、同人に対し金八百万円を同支店に普通預金として預入れる旨の申込をなし、その払込に充てるため前記小切手一通を交付した。これよりさき訴外河西は訴外東光建設株式会社の会計課長訴外大山八郎に対し、自分には銀行預金の口座がないから右会社の被告銀行新橋支店における当座預金口座を利用させてもらいたい旨を申入れ、同会社においても自社の預金の実績が上ることとてたやすくその承諾を得、その後預金のためと称して訴外大山より右会社の当座預金入金帳の貸与を受けていたものであるが、訴外河西は原告より前記小切手一通の交付を受けるや、前記支店得意先係長訴外鈴木の居席に到り、同人に対し、右小切手に右当座預金入金帳を添えて呈示し、原告より金八百万円の融通がついたにつき金七百万円を右訴外会社の当座預金口座に振込み、残金百万円については原告のために新規普通預金口座を設定せられたい旨を申入れた。一方訴外鈴木はその数日前訴外東光建設株式会社を来訪した際、同会社の会計課長前記訴外大山から訴外河西を同会社の顧問として紹介され、かつ近日中に同会社から被告銀行に対し相当まとまつた預金をする旨を予告せられていたので、訴外河西等に応接室の使用を許容し、また別に不審を抱くことなく訴外河西の右申入を受諾して右小切手を受領した上、当該係員をして内金七百万円を訴外東光建設株式会社の当座預金口座に振込ましめ、残金百万円については訴外河西を介して原告よりその署名捺印ある印鑑票を徴した上新たに原告のため普通預金口座を設け、その旨の記載ある普通預金通帳一通を訴外河西を介して原告に交付した。しかるに訴外河西は右預金通帳を原告に手交するに先だち、右支店待合室において秘かに金百万円の預金額の記載を金八百万円に改ざんして交付し、当時原告はこれを知らなかつたが昭和二十六年一月七日原告が被告銀行新橋支店に到り、前記普通預金を通知預金に変更手続を求めるに及び訴外河西の右不正行為が発覚するに至つたものである。

以上の次第であつて前記各証拠中右認定に反する記載または供述部分は当裁判所の措信し得ないところであり、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

よつて次に右認定の事実関係に基き順次原告の主張について判断する。

(一)、第一次請求原告の主張について

原告が訴外河西を被告銀行新橋支店の支店長代理と信じて、同人に対し同支店に金八百万円の普通預金をなすべき旨の申入をなしたことはまことに原告所論のとおりであるが、同訴外人は被告銀行の行員でもなく、また被告銀行において同訴外人に行員同様の待遇を与えたこともないことは明かであり、本件に現れた全証拠を以てするも、被告銀行係員が右支店内において同訴外人の行員らしき行動をとることを黙許していたと認めるに足りない。銀行がその得意先関係の者に対し応接室の一時使用を許容することは顧客優遇を旨とする銀行の営業方針としては当然の措置であつて、これを捉えて論難するは当らず、また外来者が営業事務室に出入することありとするも所用のためと認められる限りは銀行係員において徒らにこれを阻止する理由に乏しく、同支店得意先係長訴外鈴木において原告の預金につき印鑑票用紙の授受、預金通帳の交付等を訴外河西に託したのは、同人が原告の同行者として原告のために事務を処理するものと認めたがためであつて、銀行側においてなすべき手続を委託したものではないと認められる。しからば被告銀行は明示的には勿論黙示的にも訴外河西に対し如何なる意味における代理権付与の表示をもなしていないものというべきであり、たとい訴外河西が原告に対して銀行員らしい態度をとつたとしても、右は被告銀行の関知するところではなく、原告が訴外河西との間においては名刺交換等がなされなかつたにかかわらず、訴外一藤木の一片の言を軽々に信じて訴外河西を支店長代理と考えたことはむしろ原告の過失である。右のとおりとすれば原告の本件表見代理に関する主張は到底これを採用するに由ない。

(二)、予備的請求原因の主張について

(イ)の主張について

前記の如く原告は被告銀行に対して金八百万円を預金する意思を有していたものであるが、中間に訴外河西が介在したため原告の真意は被告銀行に到達せず、右訴外河西の作為により原告の金八百万円預金申込の意思表示は金百万円の預金申込として被告銀行に伝達せられ、被告銀行は右申込に承諾を与えたものであるが、訴外河西は原被告いずれの代理機関にもあらず、その他原被告双方より何等の権限をも授与せられていたものではないから、その間に表見代理等の法理を介在せしめる余地なく、被告銀行に伝達せられた原告の右預金申込の意思表示は法律行為の要素に関する表示の錯誤あるものとして無効というの外なく、無効なる申込に対して承諾を与えても契約は成立するに由ないから、結局原被告間には全然預金契約が成立しなかつたものというの外はない。ところで本件小切手が原告の右金八百万円預金のために原告より直接被告銀行に交付せられたものであるとすれば、預金契約が成立しない以上被告銀行は不当利得として右小切手を原告に返還すべき義務を負担するものというべきであるが、被告銀行は原告より直接本件小切手を取得したものではない。すなわち被告銀行新橋支店得意先係長訴外鈴木は前記の如く訴外東光建設株式会社を来訪した際、同会社の会計課長訴外大山八郎から訴外河西を同会社の顧問として紹介され、かつ近日中に同会社から被告銀行に対し相当まとまつた預金をする旨を予告せられており、なお訴外河西から右訴外会社等のための預金申込を受けるに当り「原告より金八百万円の融通をつけた」旨を告げられたので、訴外鈴木は別に不審を抱くことなく、訴外河西を右訴外会社の代理人と信じて右預金に充てるため本件小切手を受領したものであり、被告銀行においては原告と訴外河西等間の本件小切手の授受関係等については何等関知せず、その間の関係については全く善意であつたと認めることができる。しからば被告銀行は本件持参人払式小切手の善意取得者として何人に対しても返還の義務なきものであり、被告銀行の本件小切手の取得と前記原被告間の預金契約不成立の事実との間には直接の因果関係はないから、原告の本件不当利得返還に関する主張は理由なきものといわなければならない。

(ロ)の主張について

鑑定人井上勝馬の鑑定の結果に照し、なおこれに社会通念を参酌すれば、被告の反駁事由はそのままこれを肯認するに足り、原告の主張する注意義務懈怠の事実はいずれも銀行員としての業務上の注意義務違背に該当するものとは認められないから、原告の本件使用者責任に関する主張もまた採用に値しない。

(ハ)の主張について

訴外河西が訴外東光建設株式会社のために原告より本件小切手を代理取得したといい得るか否かは疑問の存するところであるが、この点は暫く措き、被告銀行は訴外東光建設株式会社が本件小切手の所持人であると信じて善意にてこれを取得したものであり、かつ前記認定の事情に照せばかく信ずるにつき過失はなかつたものと認められるところ、小切手法第三十八条第五項第三項の法意は小切手取得者が善意無過失にて自己の取引先と信じた者より線引小切手を取得した場合にもなお損害賠償の責任を負担せしめる趣旨ではないと解するのを妥当とするから、原告の本件小切手法第三十八条第五項に関する主張もまた排斥を免れない。

以上説示のとおり原告の本訴請求はすべて理由のないことが明かであるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 古山宏 江尻美雄一 兼子徹夫)

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